2011/06/05

兵士が見た多面的な慰安婦像とバイアス


昔を知らない私たちは、当時の人の証言と聞くと真に受けてしまいがちである。慰安婦の証言を疑うのはセカンド・レイプだという主張は論外としても、当時を体験した人の証言であっても「後知恵」によって本来の理解が曇らされてしまっている例もあるはずだ。

戦争の悲惨さを後世に伝えようと著述、講演活動をしていたこの曽根一夫は、戦場で慰安婦と接した体験を持つ旧軍兵士であった。彼は自分の体験から、

「私が戦地で見た限りでも、慰安婦の中で水商売経験者が占める率が圧倒的に大きかった。私もその種の仕事をしていたという慰安婦と幾人か接した。その慰安婦たちを通して感じたのは、男をあしらうテクニックを心得ていて、仕事の点では、素人の女と比較にならない程上手だった。しかし、この種の女が全部とはしないが、中には男擦れした女がいて、「将兵を優しく慰撫する」という目的に沿わない者が少なくなかった。

と当時の事を振り返っている。しかし、現在では「慰安婦の70%は朝鮮人」であり、朝鮮総督府が強制連行したものだとも信じている。これは彼が後年接した情報によって本来の像が歪んでしまった結果だろう。

彼はまた、戦地において慰安婦から直接「特殊看護婦」や「娯楽施設」の従業員の名目で騙されたという話を聞き取ってもいる。その事を彼は、

商売している女は作り身の上話が上手だから、といわれる方があるかも知れないが、語ったときの真剣な態度から私は信用できると思った。仮に話半分とうけとっても、軍の威光を背景にして民間業者があの手、この手を用いて募集したのを知ることができる。

と、冷静に振り返っているが、多分この辺が真相なのだろう。

彼が聞かされた「わたしは女学校に進学いたしました。それもお嬢様学校といわれた女学校でした。卒業してからはお華の稽古、茶道を習うなどして、花嫁修業をいたしておりました。そのまま順調にいったならいまごろは、奥様と呼ばれていたことでしょう(P.28)」という話は、娼婦の罪のない嘘だったのかもしれないが、女衒の手練手管に騙された女性は存在したのだろう。

ついでだが、「特殊看護婦が慰安婦だと知ったのは玄界灘を超えた直後」だったと話している事からも分かるように、この証言者は日本人女性であるらしい(曽根は中国戦線に出征していた)。ということは、慰安婦「被害者」には日本人もいたということである。賠償の対象から日本人を排除してきた国会議員や運動家たちは、この事についてどう説明するつもりなのだろうか(実は彼らなりの「言い訳」は存在する)?

戦争体験者としての曽根の記憶と認識は正しかったに違いない。しかし、90年代に入り次々に発表される後付の情報によって彼の考えは補正(?)されていく。

日韓併合や戦時動員についての彼の認識についても言えることだが(ここでは慰安婦問題に特化する)、彼の認識は、戦後の情報によりかなりのバイアスがかかっている。以下に見えるように尹貞玉(金一勉)の影響らしき物も見える・・慰安婦制度=民族抹殺政策説の信奉者なのである。

軍部、政府は、従軍慰安婦を内地女性だけで充足するのが難しいとみてとると、朝鮮半島を供給源とした。...朝鮮半島には健康的で若い女性がたくさんに在住している。若くて純真で、それに植民地政策下にあって忍従生活に慣れていたから、従順であった。...朝鮮総督府の権力を行使して集めることができる。朝鮮全土に配置してある警察官を総動員して当たらせたなら、万単位の女性を短期間に集めるのは容易である。

そうして強引に集めても、朝鮮の人は抗議することはできない。...朝鮮の女性を慰安婦とするのは、当時の軍部、政府にとっては、赤ん坊の手をひねるよりも容易なことであった。

それに、朝鮮民族から若い女性を引き抜くことにより、民族の繁殖抑止ができる。それがひいては朝鮮民族抹殺政策につながることになる。日本の国にとっては一石二鳥であった。軍部、政府はそれらに着眼して、朝鮮半島を慰安婦の供給源としたとされる。

しかし、最初は総督府の手を直接わずらわせずに、腕利きの周旋屋に依頼して、金と甘言によって募集した。...そうして募集していた間に戦地では従軍慰安婦の需要がいよいよ増した。そこで軍は、民間業者による募集だけでは供給に追いつけないとみて、強硬な手段を用いた。朝鮮総督府の権力による女集めであった。それは募集によるなど生易しいことでなくて、女狩りであった。朝鮮総督府は軍から依頼をうけると、朝鮮全土の警察官に指令して、16歳から20歳までの未婚の女性を対象としてリストを作らせた。そのリストを台帳として必要に応じて人数を牛蒡抜きにしたのだった。

出頭するよう指令された者はいかなる事情があろうとも、拒否することはもちろん、弁解することさえ許されなかった。日本人官憲の手から逃れるには、この世から消えてしまう以外になかった。中には、悲観してのあまり身を投げて自殺した娘があった。逃避しようとして山中に入り、人喰い虎の餌食となった母娘があった。といわれる。しかし、自殺したなら親がその責任を問われたから、この世から消えるのも容易でなかった。結局は悲運と諦めて、いうとおりに従うしか仕方なかった。

リストを作るには、警察機構の末端に在る駐在所巡査があたり、現地人補助警、面長(村長)に命じて人別したのだから、該当した女性は一人も洩れなかった。だから、朝鮮半島に在住していた該当年齢の女性は、全員が慰安婦とされる対象となったのだった。そうして朝鮮半島全域にわたって狩り集めたのだから、軍が要求した人数を満たすのは容易にできた。

...そのような女狩りが9年もの間つづいたのだから、狩り出されて慰安婦とされた朝鮮女性の人数は、膨大であったと推測できる。その間、朝鮮の人たちは、恐怖で心の休まる間はなかったと推測できる。


彼は現在では評判の悪い、吉田(清治)証言すら真に受けていた。曰く「その根拠がどこにあるのかは知らないけれど、慰安婦を体験したわたしには頷けるものがある」。


当時、山口県労務報国会下関支部に属して、動員部長として実際に朝鮮人を徴用したという吉田清治という方が健在しておられるので、その方の話を紹介する。私は、直接に面談したことがないので講演などで、知り得たことである。...この話から想像すると、徴用したというよりか、略奪したに等しいとうけとれる。吉田さんは、動員部長として朝鮮人徴用にあたった約3年の間に、強制連行した人数は男女合わせた約6千人、女性は少なくみても、950人はいたといわれる。

下関支部だけでそれほどたくさんの朝鮮人を連行したのだから、他の支部を合わせて累計したなら、膨大な数字になると推測できる。...吉田さんは、「私が強制連行した朝鮮人のうち、男性は半分、女性は全部が死んだと思います」と言っておられる。その根拠がどこにあるかは知らないけれど、慰安婦を体験した私には頷けるものがある。


体験者だからといって、その話が正しいとは限らないのである。彼の文章には「・・と推測できる」と書かれた部分が散見される。その推測の根拠になっているのは、戦後の「慰安婦論」であったりするのである。戦地で、これは慰安婦に限った話ではないが、悲惨な戦場の現実を見て来ただけに、こういった「慰安婦論」に取り込まれ易かったのかもしれない。

戦争の悲惨さを後世に伝えるつもりで、知らぬうちに非常に政治的な論争に巻き込まれてしまった。その為に自らの著書の価値を毀損してしまっている。気の毒なことである。